愛宕山 常瀧寺

愛宕山 常瀧寺 【丹波市】

Tel:0795-87-5145

水子供養や護摩祈願・永代(合祀)墓のご案内は、確かな実績のある兵庫県丹波市の常瀧寺へ。

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ちけん和尚のコラム

ちけん和尚のコラム

 
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2017/03/19

常瀧寺の水子供養

 常瀧寺の水子供養の歴史は古い。先代の時に水子霊園を作り永代供養として石造の水子地蔵尊を祀るようになったもので、四十数年経つ。当時は檀家様と近隣の方々ばかりであったが、私の代になってインターネットで募集するようになった。当時はまだインターネットに掲載している寺院はごくわずかで神戸や姫路方面からたくさん来て頂いたものである。ところが、最近はたくさんの寺院がネットで宣伝していて僻地の山奥にある私の寺はかなり不利になった。

昔に比べると水子供養は激減したが、何度も供養に来られる人や定期的にお参りされる方は逆に増加している。お参りされる方は二通りに分かれるようだ。石造の水子地蔵尊は価格が高いので若い方には負担が大きい。そこで数年前から小さな鋳物の水子地蔵尊を安価で本堂の裏の位牌堂で祀れるようにしたのである。従って、外の水子霊園と本堂の二カ所に水子地蔵さんがおられので、どちらかに分かれるようになったものだ。水子地蔵さんをお祀りされていない人も案外に多く、その人達は霊園のシンボルである大きな水子地蔵さんをお参りされているようだ。

どうして私の寺へ何度もお参りに来られる方が多いのだろうか。一つには、水子供養の証としてカード型の御守りを授与しているが、その時に一年か二年ぐらいを目途にして返納して頂くお礼参りを奨励している。ただそれだけではないだろう。水子供養の時にしている母体加持の効果もあるようだ。この母体加持というのは常瀧寺だけの秘法で、水子供養の後に女性と向き合って仏さまの加護を乞い願うものである。せっかく宿った命を失ったことに因る罪障を消滅させて開運招福を祈念するのが目的だ。当事者の女性の仏性を開花させて仏縁を持つので何度もお参りに来られるのだろう。

常瀧寺では水子供養の所用時間は三十分であり、一般の法事と同じ位置付けである。従って、かなり疲れるので一日に二組が限度だ。六種類の供養を設けていて、女性の気持ちに応じて選択できるのはおそらく常瀧寺だけではないだろうか。一般供養だけは毎年供養に来られる方用であるが、それ以外はすべて母体加持が付いている。また、水子が複数あっても、一霊の価格とわずかな気持ちだけでさせて頂いているのも若い方には喜ばれているようだ。最近は高齢化社会になって若年世代が仏縁を持つ機会が減っているが、こうした水子供養を通して若い方々の仏性を開花させて行くのが僧侶としての私の使命なのだろう。

2016/09/15

良い守護霊と悪霊

   
自分を護ってくれている守護霊の存在を意識している人は少ないだろう。守護霊は守り本尊とは違って、一般的にはご先祖さまの霊であることが多い。良い守護霊は守り本尊の配下で現世の私たちに寄り添って守護してくれているが、一方で怨念を持った悪い先祖霊もいる。

 二十年ほど前のことであるが、当時まだ高校生であった息子さんを水難事故で亡くされてその月命日のお参りをさせて頂いていた家があった。私が知り合ったのは七回忌の法要が終わって数か月経った頃である。

当時は役僧の身分で初めてその家にお参りしたのであるが、読経中に何か得体の知れないものが背後から私の首を絞めつけてくる感覚があった。幸い大事には至らなかったが、読経が終わって施主さんに聞いてみるとこの家は借家らしい。

住んで十年余り経つらしいが、ご主人は原因不明の病気で入退院を繰り返しておられ、奥さんが働いて何とか生計を立てておられる。更に聞いてみると、以前に住んでおられた方がこの家で自殺したという噂話があるようだ。私はこの土地の因縁が悪く地縛霊などの可能性が高いと思った。

後日、施主である奥さんの依頼を受けて地鎮と無縁仏の供養の為に線香護摩を自宅で修法したのである。その後しばらくたって奥さんからお礼の電話があったが、ご主人の病気が快方に向かっている事を大変喜んでおられた。おそらく地縛霊から解放されたからだろう。

一戸建て住宅は勿論であるが、マンションなどでもこうした例はある。ただ住まれる人の体質や性格によってその症状は全く違うようだ。良い守護霊であれば私たちが気づかないようなかたちで危険や災難から守ってくれる。「九死に一生を得た」と言う人は皆この守護霊のおかげである。 

では、良い守護霊を持つにはどうしたら良いのだろう。守護霊の多くは先祖霊であることを考えれば、日頃から先祖に対しての供養と感謝が大切だ。また、先祖霊とのコンタクトを心掛けるようにしたい。具体的には仏壇や墓などに向かって挨拶や会話をすることから始めるが、長く続けていれば六感で何らかのサインを感じ取れるようになる。

良い守護霊を持っている人の中には、代々引き継いできている世襲の守護霊もあるが、受け継いだ人の性格が悪かったり度量がなかったりすると離れて行く。逆に、長い人生の中で急に運気が向上して幸運が舞い込む人がいるが、それは守護霊が上位に昇格したか、強い守護霊と交替したからだ。人によって守護霊は異なるが、良い守護霊を得るには自身の菩提心の向上が不可欠なのだろう。

2016/06/28

幸せの見つけ方

 仏教は成仏を目指して仏になることを説く教えである。一般的に死んだ人をホトケさんと呼ぶことがあるが、それは人が亡くなれば必ず成仏をすると仮定してのことだろう。その成仏も亡くなられてすぐに成る人がいる一方で、長期間かかる人もいる。そこには生前の仏性が大きく関係しているようだ。

仏性とは「仏に成ることのできる性質」のことであるが、仏教では禽獣草木すべてに宿るとされている。特に私たち人間は生まれながらにして仏性をいただいているが、その存在に気が付いて生活している人はほとんどいないだろう。誰でもオギャーと産声をあげて生まれてきた時は、一点の曇りもない純粋無垢な仏性である。

母親や周囲の人の愛情によってその仏性は育まれて行くが、成長と共に世俗の垢に汚れていくのは誰しも同じだ。成長するにつれて自我が芽生えてくるからだろう。そこで様々な欲望や執着をいかにコントロールするかが大事になってくる。言い換えれば煩悩を抑制するということになるが、なかなか凡人には難しいことだ。
 

当初、お釈迦さまは人々に「あなたの幸せの為に煩悩を捨てて涅槃の境地を目指しなさい」と説かれたが、実際に煩悩を完全に捨て去る事は不可能に近い。それで大乗仏教では、欲望をほんの少しだけ少なくすれば良いとして、「少欲知足」が幸せの道であるとした。欲を少なくして足るを知るということで、欲を小さくするという意味ではない。 

例えば食欲では同じ年齢と体格の人でも食欲の差があるように、人によって満腹感は違ってくる。たった茶碗一杯で満腹になる人や、三杯でないと満腹感が得られない人もいるだろう。「腹八分目」にしようと思えば、普通の人は茶碗一杯で100gのご飯を2割減らすので80gである。食欲のある人はそれを三杯食べるから240gで、減量前からいえば普通の人は20g、食欲のある人は60グラムも減らしたことになるのだ。食欲のある人の方が多くのご飯という煩悩を減らしたといえる。裏を返せば、煩悩が大きいほど幸せも多いということになりはしないだろうか。

現代の社会は物で溢れかえっているが、仮に全部で8個の欲しい物があるとする。しかし現実的に自分の生活を考えた時、4個しか叶えられそうにない。そこで欲しい物を5個にしてみるとどうだろう。8個の少欲に対して4個の知足と8個の少欲に対して5個の知足では、明らかに後者の方が大きくなるが、どうやらここが幸せを見つけるポイントといえそうだ。 

また、欲望が全くゼロでは幸せもない。ある程度の望みを大きく持った上で自分に合った「知足」を見つけたい。「知足」とは次から次へと欲望を膨らませるのではなく、「これで十分」と足りることを知る心を持つことである。「知足」と「少欲」の関係がうまく行けば、幸せ感がかなり増すことだろう。 

2016/06/17

遺影と供養の関係


 少し前までは、亡くなられた方の年齢が八十歳になっておられたら長生きされたという感覚があったが、最近は高齢化社会で九十歳を越えないと長生きされたとは言えなくなってきているようだ。そんな中にあって故人が若ければ余り影響はないが、高齢の方を見送る時の遺影が供養をする上で大切なツールとなっている。

 私は葬式の時には必ず遺影をしっかりと見つめてお経を唱えるが、読経していると何となくその人の生きて来られた足跡というか、人生観みたいなものが垣間見える。その一方で亡くなられた年齢よりもかなり若い遺影が祀ってあったりすると、なかなかその故人をイメージしにくいものだ。
 
 お葬式の前には枕経をするので実際の遺体のお顔を拝見するのであるが、そのお顔と全く違うとなれば戸惑いだけでなく、読経ののトーンも自然と下がってしまう。そんな時には枕経で拝見したお顔を思い出して読経するようにしているが、何か違和感があるのは否めない。


 供養する側からすると遺影を拝見し、故人に想いを馳せて読経や様々な修法をする。例えばお性根抜き一つをとってみても、蓮華印を結んでそこに仏さま(霊)を乗せて法性の界に送ると観想(イメージ)するように、お葬式の時などは故人の霊を観想して引導するからだ。

 亡くなられた時に比べて極端に遺影が若いと、その観想が曖昧なものになってしまう。できることなら亡くなられた年齢に近い遺影か、少し若くても晩年をイメージできるものにしたい。特に供養では、故人が高齢者であればあるほどその遺影の持つ役割は大きいのだろう。

2016/06/15

真言宗の本尊

  私の所属している宗派である真言宗の本尊というと大日如来である。ところが、真言宗寺院の本尊がすべて大日如来とは限らない。阿弥陀如来や薬師如来、不動明王など様々な仏様を本尊としている寺院がたくさんある。他の宗派では考えられないことであるが、真言宗ではどうして様々な本尊が祀られているのだろうか。

  真言宗ではどの仏様を祀っても、本尊である大日如来の化身であるとされている。この世に出現して教えを説いた釈迦如来も、大日如来の現れの一つと考えられているのだ。字の如く太陽の光のように万物を照らし、様々な仏様に姿を変えて説法している。宇宙の創造主として密教の中の最高位にあるが、直接的に衆生を教化することはないのである。

  
 真言宗の正式な仏壇であれば、中央に大日如来、向かって左に不動明王を祀るが、これは不動明王が大日如来の教令身として働いているからだ。つまり、大日如来を拝んでもその利益を下さるのは不動明王ということになる。それ故、昔から大日如来の信仰が見られないのはその為だろう。

  
 私は新たに仏壇を新調される信徒様にはその旨を伝えて、既成の概念にとらわれずに故人や家族に縁のある仏様をお祀りされることを推奨している。また、掛け軸の本尊ではなく立体的な尊像が良いだろう。縁があったり愛着のある尊像を祀ることによって、礼拝する者にもより良い仏性が刷り込まれて一家の良き守り本尊となってくれるはずである。

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