2016/06/15
真言宗ではどの仏様を祀っても、本尊である大日如来の化身であるとされている。この世に出現して教えを説いた釈迦如来も、大日如来の現れの一つと考えられているのだ。字の如く太陽の光のように万物を照らし、様々な仏様に姿を変えて説法している。宇宙の創造主として密教の中の最高位にあるが、直接的に衆生を教化することはないのである。
真言宗の正式な仏壇であれば、中央に大日如来、向かって左に不動明王を祀るが、これは不動明王が大日如来の教令身として働いているからだ。つまり、大日如来を拝んでもその利益を下さるのは不動明王ということになる。それ故、昔から大日如来の信仰が見られないのはその為だろう。
私は新たに仏壇を新調される信徒様にはその旨を伝えて、既成の概念にとらわれずに故人や家族に縁のある仏様をお祀りされることを推奨している。また、掛け軸の本尊ではなく立体的な尊像が良いだろう。縁があったり愛着のある尊像を祀ることによって、礼拝する者にもより良い仏性が刷り込まれて一家の良き守り本尊となってくれるはずである。
2016/05/05
2016/04/01
昨今、時代の流れで葬儀の在り方も大きく変遷してきているが、葬儀をしないとなると人間としての尊厳を否定することになる。葬儀と告別式は別なのだ。「葬儀はいらない」と思っている人は「告別式はいらない」と言うべきなのだろう。
2016/02/24
先日の不動護摩にお参りされていたおばぁちゃんが、「私の両親は苦労して私を育ててくれて、一つも良い事なしに逝きましたけど、逆にその分私は幸せで有難いです。最近この幸せがいつまで続くかそれが心配で仕方ないんですわ」と話された。私は「子供さんやお孫さんにはそれぞれまた違った人生がありますから、心配せんでええんと違いますか」と言うと、「そうですねぇ」と言いながらニコニコと笑われている。添え護摩に子供の分は勿論、たくさんの孫の分までそれぞれの幸せを祈願されている信心家のおばぁちゃんらしい言葉だ。
人によって良い事や幸せの基準は違う。逆に悪い事や不幸に対する見方もかなり違ってくる。それは育った環境が大きく影響するのではないだろうか。環境の著しく悪いところで育つと、良い事は自分の力で成し得たと思い、悪い事は「元々生まれた星が悪い」とか「あの人のせいだ」とか言って責任転嫁して感謝することなく、負のスパイラルが起きてしまうことが多いようだ。ある程度満たされていると、それほどガツガツすることなくすんなりと高い目標を手に入れることもあるようであるが、しっかりとした節度を持った上でのことに違いない。
では良い事や幸せを呼び込んだりするにはどうしたら良いのだろう。私は僧侶の立場から、先ず「懺悔文」を言い、その後に「感謝の念」を表すことをお勧めしている。神仏に向かって祈りを捧げる時、最初に住所、氏名などを名乗って懺悔し、今現在生かして頂いていることに感謝の念を表すことが大切だ。その後に具体的なお願いがあればすると良い。とにかく日頃から感謝の気持ちを持って生活していれば、ネガティブなこともポジティブに捉えられるようになり良い波長の連鎖が幸せを運んで来るようになるだろう。日頃から慢心することなく、常に謙虚でいたいものだ。(過去のちけん和尚のブログより)
2016/02/09
当初は、何処の寺院もしている読経だけの供養をしていたが、水子供養をされる方には大きく分けて二つのケースがあることに気が付いた。一つは出産を楽しみにしていたのに流れた場合、もう一つは諸事情で止む無く流した場合である。
つまり、流れるのと流すのとでは供養に対しての気持ちがかなり違うようだ。それ故に女性の気持に応じた供養をしてあげたいという思いから、供養を選択できるようにしたのである。六種類の供養の中から選択できるようにしているが、これは他寺院にはあまりない大きな特徴だろう。
また、水子供養をされる女性の気持ちは、自分のお腹に宿った命を絶ったという罪悪感みたいなものを抱いている方が多い。そうした罪障を取り除き、水子供養の後に母体と向き合って開運招福のお加持をさせて頂く母体加持も常瀧寺のオリジナル供養の一つで好評だ。
私は僧侶として水子供養をすることに最初の頃は本意でなかったが、今では真剣に取り組んできて良かったと思えるようになった。法事をするのと同じぐらいエネルギーを要するが、終わった後の女性の涙や清々しい顔を見ていると供養にやり甲斐を感じる。週末になると水子霊園にお参りされる方が増えているが、一人でも多くの若い方の仏性が開花することを願ってやまない。