愛宕山 常瀧寺

愛宕山 常瀧寺 【丹波市】

Tel:0795-87-5145

水子供養や護摩祈願・永代(合祀)墓のご案内は、確かな実績のある兵庫県丹波市の常瀧寺へ。

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ちけん和尚のコラム

ちけん和尚のコラム

 
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2016/06/15

真言宗の本尊

  私の所属している宗派である真言宗の本尊というと大日如来である。ところが、真言宗寺院の本尊がすべて大日如来とは限らない。阿弥陀如来や薬師如来、不動明王など様々な仏様を本尊としている寺院がたくさんある。他の宗派では考えられないことであるが、真言宗ではどうして様々な本尊が祀られているのだろうか。

  真言宗ではどの仏様を祀っても、本尊である大日如来の化身であるとされている。この世に出現して教えを説いた釈迦如来も、大日如来の現れの一つと考えられているのだ。字の如く太陽の光のように万物を照らし、様々な仏様に姿を変えて説法している。宇宙の創造主として密教の中の最高位にあるが、直接的に衆生を教化することはないのである。

  
 真言宗の正式な仏壇であれば、中央に大日如来、向かって左に不動明王を祀るが、これは不動明王が大日如来の教令身として働いているからだ。つまり、大日如来を拝んでもその利益を下さるのは不動明王ということになる。それ故、昔から大日如来の信仰が見られないのはその為だろう。

  
 私は新たに仏壇を新調される信徒様にはその旨を伝えて、既成の概念にとらわれずに故人や家族に縁のある仏様をお祀りされることを推奨している。また、掛け軸の本尊ではなく立体的な尊像が良いだろう。縁があったり愛着のある尊像を祀ることによって、礼拝する者にもより良い仏性が刷り込まれて一家の良き守り本尊となってくれるはずである。

2016/05/05

宗教とお葬式

 最近は家族葬が増えているが、その中にはお葬式をしないという家もあるようだ。葬儀屋も一応は家族葬ということで仕方なく葬式を告別式に置き換えているが、いわゆる無宗教ということになる。僧侶や祭司者を頼まないで、本当に故人の御霊は大丈夫なのだろうか。儀式を司る私としてはそんな疑問が湧いてくる。 

 仏教や神道、キリスト教など宗教には、長い歴史の間に蓄積された祈りと鎮魂のノウハウがある。そうした宗教の力を借りずに故人の鎮魂慰霊はかなり難しいはずだ。どんな宗教でも信仰には大きな力があり、故人にとってその信仰が何よりの慰霊になるからである。 
 
 私のこれまでの僧侶経験から言うと、亡くなられて二十四時間以内に枕経に行けば大抵の場合まだ霊魂は肉体にある。おそらく納棺する前ぐらいには、何処かに浮遊しているようだ。お葬式をしていると祭壇付近などにしばしば熱い眼差しを感じることがあるが、それは自分のお葬式を見届けているからだろう。


 仏教では「引導を渡す」という言い方をするが、お葬式は死者に今生の終焉を宣告するものである。そして遺族にとっては、故人への思いを胸裏に刻みながら最後の別れの儀式となるものだ。何処かの葬儀屋さんのコマーシャルに「葬儀は生きる儀式」とあったが、当に死者にとってはあの世に往生する儀式であり、遺族は悲しみを縁としてよりよく生きる為の儀式と言えよう。
 

 宗教に入信してその信仰の中でお葬式をする行為は、文明人としての特権だ。残念ながら世界の中で無宗教と言ってはばからないのは日本人ぐらいである。それが国際社会における日本人としての人間の価値を低下させる原因にもなっているのではないだろうか。無宗教で告別式はできるが、お葬式は出来ない。お葬式をするということは、何かの宗教に属しているということに他ならないのだ。


 無宗教と言っている人の多くは先祖を辿れば仏教徒であるが、決して信仰心がないわけではない。正月には初詣に神社仏閣へ出かけ、祭りや盆踊りなどの宗教行事にも携わる。自然と普段の生活の中に溶け込んでいるので、宗教に属していると意識しないのかも知れない。また特定の宗教に属するのが嫌いなのかも知れない。様々な神社や寺院の御守りを持っている人が多いのもそうした背景からだろう。
 

 農耕民族である日本人は古来より神様を崇拝してきた。やがて仏教が伝来すると、神様と仏様が互いに融合して現在に至っている。神道系の信者数は
9126万人、仏教系は8690万人で 両方を合わせると日本の人口を上回るが、これは神仏習合で両方の信者となっているからだ。この数字から見ると、どうして無宗教と言えるだろうか。不思議である。日本人としての誇りを持ち、自分の宗教観を見つめ直して欲しいと願う。お葬式は人間としての尊厳であり義務であると思うからだ。

2016/04/01

葬儀不要論に思う

 先日新聞を読んでいたら、「葬儀はいらない」などと書かれた見出しが目に留まった。現代の孤立した無縁社会を象徴するような記事であるが、最近は葬式をしてほしくないという人が増えてきているそうだ。私から見れば何とも身勝手な話のように思える。自分一人の力で生きて来たと思っておられる方が多くなってきているのであろうか。そもそも死後の自己決定権などあるわけがなく、後のことは回りの人に「おまかせ」するしかないのである。

誰でも亡くなると遺体になるわけであるが、そのままにしておくわけにもいかず、遺棄するわけにもいかず、結局は火葬や埋葬などの儀礼が必要となってくる。遺体をゴミとして扱うなら別であるが、火葬や埋葬をするということは葬儀ということに他ならないのだ。結局は死んでからも誰かの人の世話になるわけである。

私が僧侶に成り立ての頃、頼まれて老人ホームに入居されていた年老いたおばぁさんの弔いに行かせて頂いたことがある。身寄りがなく盛大な葬儀ではなかったが、亡くなられた部屋に知り合いの方や施設の職員が集まってささやかなお別れの会といった雰囲気であった。四十九日が終わるまで施設で祀り、四十九日が終わると何処かの合祀墓へ納められたらしい。

福祉葬ということであったが、施設の方の温かい気遣いが感じられ、私も一生懸命に読経させて頂いたのを覚えている。このおばぁさんも「自分のお葬式はせんでええ」と生前によく言っておられたようであるが、そんな訳にはいかない。「ホームに一緒に暮らしてきた者としてお別れの儀式は当然で・・・」とある職員の方が涙ながらに言われていた。生前の故人を知っている者にとって、そのおばぁさんがいなくなるという確認とその弔意を表す機会が必要で、見送ることによって自らの生の意義に深く思いを致すことになるのではないだろうか。

葬儀は故人の為だけにするものではない。遺族や知人にとっては故人の姿を心に刻む儀式や確認が不可欠である。死んで逝く者が「葬式はいらない」と言っても、故人と生前に関わってきた人にとっては最後の見送りをしてあげたいと思うのが人としての当たり前の気持ちであるからだ。また、故人も遺族や知人などの心の中にいつまでも生き続けたいという願望が何処かにある。葬儀はそれを叶える儀式ではないだろうか。

昨今、時代の流れで葬儀の在り方も大きく変遷してきているが、葬儀をしないとなると人間としての尊厳を否定することになる。葬儀と告別式は別なのだ。「葬儀はいらない」と思っている人は「告別式はいらない」と言うべきなのだろう。

2016/02/24

幸運を呼び込む方法

 私たちは一杯良い事が続くと何か逆に怖いと思ったり、運を使い果たしてしまったのではないかと思う人が多いのではないだろうか。人生全体の出来事で良い事をプラス、悪い事をマイナスとして、全体でプラスマイナスゼロという考え方をいつの間にかしているようだ。実際のところは「万事塞翁が馬」ではないが、人生思いがけないことが幸運を招いたり、不幸につながったりして、誰にも予想はつかない。また、「禍福は糾える縄の如し」とも云われるように、幸福と不幸は巡り巡って代わる代わるやってくるものと思っている人も多いようである。


先日の不動護摩にお参りされていたおばぁちゃんが、「私の両親は苦労して私を育ててくれて、一つも良い事なしに逝きましたけど、逆にその分私は幸せで有難いです。最近この幸せがいつまで続くかそれが心配で仕方ないんですわ」と話された。私は「子供さんやお孫さんにはそれぞれまた違った人生がありますから、心配せんでええんと違いますか」と言うと、「そうですねぇ」と言いながらニコニコと笑われている。添え護摩に子供の分は勿論、たくさんの孫の分までそれぞれの幸せを祈願されている信心家のおばぁちゃんらしい言葉だ。

人によって良い事や幸せの基準は違う。逆に悪い事や不幸に対する見方もかなり違ってくる。それは育った環境が大きく影響するのではないだろうか。環境の著しく悪いところで育つと、良い事は自分の力で成し得たと思い、悪い事は「元々生まれた星が悪い」とか「あの人のせいだ」とか言って責任転嫁して感謝することなく、負のスパイラルが起きてしまうことが多いようだ。ある程度満たされていると、それほどガツガツすることなくすんなりと高い目標を手に入れることもあるようであるが、しっかりとした節度を持った上でのことに違いない。

では良い事や幸せを呼び込んだりするにはどうしたら良いのだろう。私は僧侶の立場から、先ず「懺悔文」を言い、その後に「感謝の念」を表すことをお勧めしている。神仏に向かって祈りを捧げる時、最初に住所、氏名などを名乗って懺悔し、今現在生かして頂いていることに感謝の念を表すことが大切だ。その後に具体的なお願いがあればすると良い。とにかく日頃から感謝の気持ちを持って生活していれば、ネガティブなこともポジティブに捉えられるようになり良い波長の連鎖が幸せを運んで来るようになるだろう。日頃から慢心することなく、常に謙虚でいたいものだ。(過去のちけん和尚のブログより)

2016/02/09

水子供養への思い

 常瀧寺の水子供養は先代の時に始まったのであるが、当時は檀家様や近隣の方だけであった。私の代になってホームページなどを見た方が遠方から供養に来られるようになったのであるが、その供養もこれまでに何度か試行錯誤を繰り返して現在のスタイルに至っている。

当初は、何処の寺院もしている読経だけの供養をしていたが、水子供養をされる方には大きく分けて二つのケースがあることに気が付いた。一つは出産を楽しみにしていたのに流れた場合、もう一つは諸事情で止む無く流した場合である。

つまり、流れるのと流すのとでは供養に対しての気持ちがかなり違うようだ。それ故に女性の気持に応じた供養をしてあげたいという思いから、供養を選択できるようにしたのである。六種類の供養の中から選択できるようにしているが、これは他寺院にはあまりない大きな特徴だろう。

また、水子供養をされる女性の気持ちは、自分のお腹に宿った命を絶ったという罪悪感みたいなものを抱いている方が多い。そうした罪障を取り除き、水子供養の後に母体と向き合って開運招福のお加持をさせて頂く母体加持も常瀧寺のオリジナル供養の一つで好評だ。

私は僧侶として水子供養をすることに最初の頃は本意でなかったが、今では真剣に取り組んできて良かったと思えるようになった。法事をするのと同じぐらいエネルギーを要するが、終わった後の女性の涙や清々しい顔を見ていると供養にやり甲斐を感じる。週末になると水子霊園にお参りされる方が増えているが、一人でも多くの若い方の仏性が開花することを願ってやまない。

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