2022/10/14
2017/03/19
昔に比べると水子供養は激減したが、何度も供養に来られる人や定期的にお参りされる方は逆に増加している。お参りされる方は二通りに分かれるようだ。石造の水子地蔵尊は価格が高いので若い方には負担が大きい。そこで数年前から小さな鋳物の水子地蔵尊を安価で本堂の裏の位牌堂で祀れるようにしたのである。従って、外の水子霊園と本堂の二カ所に水子地蔵さんがおられので、どちらかに分かれるようになったものだ。水子地蔵さんをお祀りされていない人も案外に多く、その人達は霊園のシンボルである大きな水子地蔵さんをお参りされているようだ。
どうして私の寺へ何度もお参りに来られる方が多いのだろうか。一つには、水子供養の証としてカード型の御守りを授与しているが、その時に一年か二年ぐらいを目途にして返納して頂くお礼参りを奨励している。ただそれだけではないだろう。水子供養の時にしている母体加持の効果もあるようだ。この母体加持というのは常瀧寺だけの秘法で、水子供養の後に女性と向き合って仏さまの加護を乞い願うものである。せっかく宿った命を失ったことに因る罪障を消滅させて開運招福を祈念するのが目的だ。当事者の女性の仏性を開花させて仏縁を持つので何度もお参りに来られるのだろう。
常瀧寺では水子供養の所用時間は三十分であり、一般の法事と同じ位置付けである。従って、かなり疲れるので一日に二組が限度だ。六種類の供養を設けていて、女性の気持ちに応じて選択できるのはおそらく常瀧寺だけではないだろうか。一般供養だけは毎年供養に来られる方用であるが、それ以外はすべて母体加持が付いている。また、水子が複数あっても、一霊の価格とわずかな気持ちだけでさせて頂いているのも若い方には喜ばれているようだ。最近は高齢化社会になって若年世代が仏縁を持つ機会が減っているが、こうした水子供養を通して若い方々の仏性を開花させて行くのが僧侶としての私の使命なのだろう。
2016/09/15
2016/06/28
仏性とは「仏に成ることのできる性質」のことであるが、仏教では禽獣草木すべてに宿るとされている。特に私たち人間は生まれながらにして仏性をいただいているが、その存在に気が付いて生活している人はほとんどいないだろう。誰でもオギャーと産声をあげて生まれてきた時は、一点の曇りもない純粋無垢な仏性である。
母親や周囲の人の愛情によってその仏性は育まれて行くが、成長と共に世俗の垢に汚れていくのは誰しも同じだ。成長するにつれて自我が芽生えてくるからだろう。そこで様々な欲望や執着をいかにコントロールするかが大事になってくる。言い換えれば煩悩を抑制するということになるが、なかなか凡人には難しいことだ。
当初、お釈迦さまは人々に「あなたの幸せの為に煩悩を捨てて涅槃の境地を目指しなさい」と説かれたが、実際に煩悩を完全に捨て去る事は不可能に近い。それで大乗仏教では、欲望をほんの少しだけ少なくすれば良いとして、「少欲知足」が幸せの道であるとした。欲を少なくして足るを知るということで、欲を小さくするという意味ではない。
例えば食欲では同じ年齢と体格の人でも食欲の差があるように、人によって満腹感は違ってくる。たった茶碗一杯で満腹になる人や、三杯でないと満腹感が得られない人もいるだろう。「腹八分目」にしようと思えば、普通の人は茶碗一杯で100gのご飯を2割減らすので80gである。食欲のある人はそれを三杯食べるから240gで、減量前からいえば普通の人は20g、食欲のある人は60グラムも減らしたことになるのだ。食欲のある人の方が多くのご飯という煩悩を減らしたといえる。裏を返せば、煩悩が大きいほど幸せも多いということになりはしないだろうか。
現代の社会は物で溢れかえっているが、仮に全部で8個の欲しい物があるとする。しかし現実的に自分の生活を考えた時、4個しか叶えられそうにない。そこで欲しい物を5個にしてみるとどうだろう。8個の少欲に対して4個の知足と8個の少欲に対して5個の知足では、明らかに後者の方が大きくなるが、どうやらここが幸せを見つけるポイントといえそうだ。
また、欲望が全くゼロでは幸せもない。ある程度の望みを大きく持った上で自分に合った「知足」を見つけたい。「知足」とは次から次へと欲望を膨らませるのではなく、「これで十分」と足りることを知る心を持つことである。「知足」と「少欲」の関係がうまく行けば、幸せ感がかなり増すことだろう。
2016/06/17
亡くなられた時に比べて極端に遺影が若いと、その観想が曖昧なものになってしまう。できることなら亡くなられた年齢に近い遺影か、少し若くても晩年をイメージできるものにしたい。特に供養では、故人が高齢者であればあるほどその遺影の持つ役割は大きいのだろう。